目隠しの理

KyrieEleison2010-10-24



葛城山を登って降りてきたら、駐車場に止めておいた車のルーフに立派なカマキリが乗っていた。秋だなぁ。
お腹が大きいから、たぶん雌なんだと思う。卵が入っているのだろう。あるいは、大物(たとえば後尾後の雄とか)を捕食した後だったのかな。いずれにせよ、次に命を繋ぐための準備をしているのだろう。興味深く覗き込むこちらを目敏く視界に捉え、警戒して構えている。
こちらに敵意はないが、このままでは車が出せないのでどいてもらおうと背中から摘もうとしたら、よほど視野が広いのかすぐに向き直ってしまい、結局捉えることができない。そんなことを何度か繰り返しているうちに、やがてあちらから素早く飛び去っていった。
トンボなんかはすぐに捕まえられるのに。いや、普段もカマキリくらい一発で捕まえられるのに。こんなに手こずるのは初めてだったので、やはりあの時期の雌カマキリは普段より敏捷なのだろうか。産卵まで生き抜くために。
母は強し?ちょっと感心した。
カマキリは、その冬の雪が積もる高さを予知して、それより高い位置に卵を産み付けるというしな。そんなふうに、命を繋ぐためにいろんな能力を研ぎ澄ましていくのが進化なのだろうな。



去年起きた耳かき店員ストーカー殺人の公判が、先週から始まっている。裁判員裁判で初の死刑判決が出るかもしれないと話題になっており、ネットでも詳細な様子が出てきているので、少々興味を持って追っていた。


事件当初、「何だよ耳かき店て!」と耳慣れないサービスにいかがわしさをぬぐえない思いで聞き流していたし、周囲も「そんな仕事してるから」みたいな論調で語られていることが多かったように思うが、いかなる職業についていかなる事をしていようが、殺されて良いはずはないのだ、そもそも。そう思い正してみると、ちょっと事件を見る目のバランス感覚が落ち着いたように思う。
この事件の難しさは、被害者側の証人と被告の認識が全く違っていることだ。被害者が嫌がっていた・困っていたということを、被告側は全く認識しておらず、被害者に「誘われたから」「お願いされたから」そうしたと認識している。ストーカーになる人間の典型的な思考回路なんだろうと思うが、全く話が通じていない。弁護側はもちろん、被害者にも落ち度があったというか、そうなるべくしてなった事件という流れに持って行きたいのだろうし、被害者側の証人が考えているほどもしかしたら被害者本人が弁護側が主張するような被告に勘違いさせるような言動をしていなかったとは限らない。本人は殺されてしまっているのだから。
被害者は、ストーカーとなった被告に怯える日々を送り、挙げ句の果てに自宅で眠っているところを襲われナイフで執拗に刺され、致命傷となる傷を負い脳死状態で意識が戻ることなく一ヶ月後に亡くなった。事件当日、自宅にいた祖母も被告と鉢合わせて惨殺されている。
ショッキングな事件だし、話題性もある。マスコミの報道の仕方にも、いつもそうだが恣意的な、つまり「初の死刑判決!」というセンセーションへの期待が感じられるし、公判の様子がこんなにも詳細に公表されてしまう事へに対して不謹慎さというか劇場型の軽薄さを感じたりもする。そもそも、裁判員裁判のように、素人が裁判に加わる事への危うさというか、たとえば公判でマスコミが報道するゴシップの類で裁判員の判断が引きずられたりしないのかとか、そういう不安もあるのだが、こういうのはやはり訓練なのかな。
新しくできた制度だから、やはり初めてが多い。今回も、初めて死刑判決が出るかもしれない。死刑制度の是非は別として、そういう判決は現行の法律では有り得て、そういう判断を下せる、あるいは下さざるを得ない、または裁判員本人はそれを望んでいなくても結果的に死刑判決が出たら自分もそれに関わったことになるというプレッシャーもあるかもしれない。
こうやって、公判の詳細が知らされて、自分が裁判員だったらどう考えるだろうとか、裁判がどんな風に行われているのかを知ったり、弁護側・検察側、被告・被害者とそれぞれの見解や証言を自分なりにつなぎ合わせていったり、被害者や遺族や周囲の人がどんな思いをしているのか、あるいは被告の親族はどんな思いをするのか、裁くとは償うとはどういうことなのかとか、他の人と世間話レベルでも議論したり、またはマスコミのゴシップに踊らされてみたり、そんな中でも事実とは真実とは何だろうと考えたり、あるいは考えなかったりと多くの要素の中で、多くの人々が直接的間接的に関わることが、この制度を成熟させていくのかもしれない。
もちろん、この制度に絶対反対する立場の人たちもいるのだろう。素人が感情で人を裁くと、それはただのリンチになってしまう。けれど、そういう意見も制度の陰には存在していると言うことを常に認識しつつ、多くの目で監視され、自らを律しながら、おそらく時には失敗しながら反省を繰り返し、成熟していくものなのだろうと思う。というか、そうすべきだと思う。そしてその先に、もしかしたら死刑制度の廃止とか法律の改正とか、そういうものを議論する土壌の醸成があるのかもしれない。触らないから変わらないではなく、議論を尽くした結論の上で変える・変えないという結論を出すことができるかもしれない。


私は正直、この裁判員制度が成立するとき、その是非を考えてはいなかった。さほど興味がなかったし、「まぁ、多少民意が反映されても良いんじゃないの?」くらいの認識だった。よくよく考えると、人の良識に拠るところの多い危うい制度だなとは思うが、けれど公には性善説を採る日本としては妥当だと思うし、もちろん数々の抑止の仕組みもあるだろう。なにより、人が人を裁いたり裁かれたりすること、そういう場面で他人事じゃなくフェアであろうとする訓練をすることは、意外と自分を含め今の日本人には足りていないんじゃないかと思ったりする。


ともあれ、制度としては成立してしまったのだから、あとはもう正しく運用していくよう努力するしかない。あるいは、やはり廃止へ働きかけるか。ただ、事象が成立するにはそれを肯定する条件があるのだから、やはりいったんはその事象を受け入れて体験してみて、その上で是非を論じてみても良いんじゃないだろうかと、それはいろんな場面で思う。


しかし、未来のある若い人が、あるいは長年一生懸命生きてきたお年寄りが、無惨な死に方をするのは痛ましい。いや、どんな人がどんな死に方をしても、やはりみんなに看取られて幸せのうちに大往生でもない限り死とは納得しがたいものだろうが、奪われた命というのはやはりことさら痛ましい。
せめて、そのことに多くの人が胸を痛め、それが犯罪の抑止になると良いのだが。