私は水の声


 図書館の物知りお兄さん業の傍ら、相変わらずヘヴィでディープな研究活動を続ける恋人の元へ、この週末は遊びに行った。
 彼が一軒家に引っ越して以来、彼がうちに来るより私が彼の元へ行くことのほうが多い。まぁ、研究学会の多い時期で、彼が忙しいというのも原因ではあるが。

 彼の住む高地の街は、この週末から鮮やかな紅葉が見られるようになった。朝晩の大気はまるで冬のような冷たさで、木々の葉を赤や黄色に染めるようだ。


 論文をいくつか抱えているという彼が書斎に篭っている間、リクエストのカレーを煮込んだり合間にDVDを見たり、書庫の膨大な小説を適当に手に取ったりする。

 古い日本家屋は、こんな晩秋の日に過ごすには大層心地いい。蕭雨が、枯れゆく草木を労わるように濡らす様を、縁側からぼんやりと眺める。
 時々息抜きに居間に下りて来る恋人は、そこに私がいることが嬉しいようだ。台所に立ったりコタツにもぐったりしている私の姿を見つけては、頭を撫でて戻っていく。

 なーんか、結婚してもいいかも。

 とかうっかり思ってしまいそうな穏やかさ、安らかさだ。
 まぁ、こういうのも寒い季節の醍醐味だな。気まぐれな私のこと、暖かくなればまた、気分も変わってゆくだろう。季節を言い訳に、今はせいぜい仲良くしておこう。



 仕事では属人的な能力を会社に食い潰されつつあって、少々めげている。表に出たいとか脚光を浴びたいとかはまったく思わないが、自分の手によるものに他人の名が付いてゆくのを見るのが忍びない。
 人間関係とかは、別にあまり苦に思っていないのだ。ただ、そのことだけが。
 悪意の無い裏切りにあっているようで、しかもそれは私の狭量な解釈によるものであるような気がして、タマシイ的にやりきれない感じなのだ。

 日頃のドライさが災いしてか、自分の事に関しては自らを孤立無援に追い込みがちだ。私は人との間において、共感を端緒としない。だから、こういう感覚的な問題に関しては、自分でどうにかするしかないと思っている。
 ただ、想像できないものなのだろうか、こういう気持ちを。
 もっとも、私には、自分の手によらないものを自分の成果とできる感性も理解できないのだが。

 仕事に関して言えば、なんだかがっかりすることが多い。
 生き馬の目を抜くって、こういうことなのかな。まぁ、そういう世界ではあるな。私が甘いだけなのかもしれない。