昨日の物語

年末なので振り返り番組が多いな。


今年はホントに困難の多い年だった。でも、それに立ち向かい乗り越える姿も沢山見た。中には勿論大きな波に飲み込まれ沈んでしまった人たちもいる。今もなお、そしてこれからもずっと苦しまなきゃいけない人たちも大勢いる。
でも、そういう人たちに心を寄せる人たち、手を差し伸べ粉骨砕身している人たちも、沢山いる。


安易に「同情」とか「感動」で片付けちゃいけないことがあることも知った。
世界の複雑さを思い知った。自分の無知無力に気づき、想像力を働かせ知恵を絞ることを知った。
それも、誰かのために。


たぶん日本は、去年より少し強くやさしくなって、新しい年を迎える。
それは、この一年でなんとか掴んだ、小さな希望だ。

天国の国境

9.11から十年。
あの日、私は熱を出して会社を休んでいた。
テレビのニュース映像は映画みたいで現実味がなく、しかし、私がそれまで見たなかではいちばん衝撃的な現実だった。
小さな砂粒のようにツインタワーから人間が零れ落ちていき、ぼんやりとブリューゲルの「バベルの塔」を思い出していた。


あの日から、世界には大きな漠然とした敵が生まれたようだった。
人々は自らが弱く、そして善であると信じたがった。悪が強く悪であるほど、自分の善性が増すかのように、敵を暴き糾弾した。
しかし、本当に用心しなければいけないのは、善と信じられているものだ。
巨悪は、独立した存在ではなく、時に善とされ正義とされたものから生まれる。
純粋な悪というのは、恐らく存在し得ない。悪と分かるものに対して、人間は立ち向かうし、拒否し存在を否定する。そのくらいには、人間の本来性は善良であるはずだ。悪と分かって多くの人間が支持することは不可能だ。
悪はそのままでは大義たり得ない。本当の悪は、善の姿をとって人々を上手に取り込んで生まれるのだ。


人間は、善悪の本質をなに一つ理解しないまま、ただ愛するものを守る為に戦う。それ自体は、善でも悪でもない、素朴な本能だ。そして、自分たちが悪と定義した「敵」もまた、同じことをしているに過ぎないと想像することが、もしかしたら人の本能から生まれる衝動を、善に踏みとどまらせる方法なのかもしれない。
そしてもう、多くの人がその事に気づいている。


歴史は常に、全ての世代に絶望を教え込み、同時に自らの在り方を問う機会を与えている。
人間の倫理や想像力は、情報技術の発達により、確実に進化(或いは最大多数の最大幸福的な平準化)している。同じ愚を繰り返しているわけでは決してない。


人類は学んでいる。そして、一人一人は確実に平和希求している。
やがて、強者の独善ではなく、全人類の願いが集約された結果として、それを実現させる手段を見出だすのだろう。
たぶん、そう遠くない未来に。


そう、信じている。

雲母を礎に

KyrieEleison2011-01-31



10代の頃、この時期聴いていた音楽とか読んでいた本とかは、自分でも驚くくらいに深く残っている。まるで、冬の冷気に鋭く刻み込まれたみたいに。
あの頃、世界は冬の夜の空気みたいに容赦がなくて透徹だった。そんな中で、精神を切り刻まれるようにして生きていた。


多くの真理は、人智を絶った場所で証される。そんな風に思っていた。
実際は、人の世の真理は人の営みの中にあり、そしておそらくその営みそのものを超越して静かなものなのだろう。我を手放してしまえば見えてくるものが、確かにあるのだ。


根底に横たわる絶望に、塗り込めるようにして生を築き上げる世界に人は存在している。大小の喜びは、発生した事象としての生を肯定するための装置でしかないのかもしれない。


けれど、人は生きるのだ。
いつか、死ぬ日が来るまで。


真理に意味などはない。真理は価値から離れて在り、生死の営みそのものはただそれでしかない。在るべくして在り、やがて用を終えて消えていくのだ。

バスケット

前の更新から二ヶ月も経っちゃいました。最近はTwitterが手軽なもんで。
気がつけば年の瀬でございます。


ということで、たまには一年を振り返ってみましょう。
主にお買い物的な意味で。

≪2010年買って良かったモノBest5≫


5位 登山靴 ガルモント アンブラGTX

[ガルモント] アンブラGTX 1100167 448 (ライトブラウン/UK6)

[ガルモント] アンブラGTX 1100167 448 (ライトブラウン/UK6)

コレがなければ、2010年の山ライフはなかった。一時間くらいかけて何足も試し履きして、ようやくコレ!というフィット感を得られたときの、石井スポーツの店員さんのドヤ顔が忘れられない。


4位 ザック オスプレー バリアント37

富士山にもコレで登りました。鮮やかな赤に一目惚れ。いっぱい入るけど、荷物が少ないときはベルトでくしゅっと締めてしまえるので、どんなシチュエーションでも使いやすい。あと、やっぱりデザインがかっこいい。


3位 シングルバーナー プリムス153

PRIMUS(プリムス) ウルトラバーナー  P153【ガス機器適合性検査済日本正規品】

PRIMUS(プリムス) ウルトラバーナー P153【ガス機器適合性検査済日本正規品】

これでお湯を沸かしたりラーメン作ったりできるようになったので、登山時の食生活が格段にアップ。疲れたときに暖かいモノを食べられるって幸せ。あと、おやつに熱いお茶
登山だけじゃなく、近所の河原でぼんやりするときも愛用。景色を眺めながら、熱いココアとかを作るのです。


2位 デジタル一眼レフ オリンパスE-620

OLYMPUS デジタル一眼カメラ E-620 ボディ E-620

OLYMPUS デジタル一眼カメラ E-620 ボディ E-620

やはり一眼レフは画面の奥行きが違います。あんまり写真のセンスないのですが、山に行ったりするときに、写真も楽しんでいます。もっと上手くなりたいんだけど、虫とかキノコばっかり撮りがち…小学生男児か。


1位 スマートフォン docomo GalaxyS
通勤時間が長いし、わりと情報中毒なのですが、コレのおかげで情報摂取の効率が格段に上がった!YouTubeも視聴できることは大きい。仕事帰りにネコ動画とかで癒やされます。ニヤニヤしながら。

まぁ、山で始まり山で終わる感じの一年でございました。



11月に行った熊野古道の古い石畳。

那智大社参道の有名な夫婦杉。
「どっちが妻でどっちが夫?」という友人Tの問いに、「穴が開いている方が妻だろう」と答えて殴られたのは良い思い出です。


それでは、皆様良いお年を。

目隠しの理

KyrieEleison2010-10-24



葛城山を登って降りてきたら、駐車場に止めておいた車のルーフに立派なカマキリが乗っていた。秋だなぁ。
お腹が大きいから、たぶん雌なんだと思う。卵が入っているのだろう。あるいは、大物(たとえば後尾後の雄とか)を捕食した後だったのかな。いずれにせよ、次に命を繋ぐための準備をしているのだろう。興味深く覗き込むこちらを目敏く視界に捉え、警戒して構えている。
こちらに敵意はないが、このままでは車が出せないのでどいてもらおうと背中から摘もうとしたら、よほど視野が広いのかすぐに向き直ってしまい、結局捉えることができない。そんなことを何度か繰り返しているうちに、やがてあちらから素早く飛び去っていった。
トンボなんかはすぐに捕まえられるのに。いや、普段もカマキリくらい一発で捕まえられるのに。こんなに手こずるのは初めてだったので、やはりあの時期の雌カマキリは普段より敏捷なのだろうか。産卵まで生き抜くために。
母は強し?ちょっと感心した。
カマキリは、その冬の雪が積もる高さを予知して、それより高い位置に卵を産み付けるというしな。そんなふうに、命を繋ぐためにいろんな能力を研ぎ澄ましていくのが進化なのだろうな。



去年起きた耳かき店員ストーカー殺人の公判が、先週から始まっている。裁判員裁判で初の死刑判決が出るかもしれないと話題になっており、ネットでも詳細な様子が出てきているので、少々興味を持って追っていた。


事件当初、「何だよ耳かき店て!」と耳慣れないサービスにいかがわしさをぬぐえない思いで聞き流していたし、周囲も「そんな仕事してるから」みたいな論調で語られていることが多かったように思うが、いかなる職業についていかなる事をしていようが、殺されて良いはずはないのだ、そもそも。そう思い正してみると、ちょっと事件を見る目のバランス感覚が落ち着いたように思う。
この事件の難しさは、被害者側の証人と被告の認識が全く違っていることだ。被害者が嫌がっていた・困っていたということを、被告側は全く認識しておらず、被害者に「誘われたから」「お願いされたから」そうしたと認識している。ストーカーになる人間の典型的な思考回路なんだろうと思うが、全く話が通じていない。弁護側はもちろん、被害者にも落ち度があったというか、そうなるべくしてなった事件という流れに持って行きたいのだろうし、被害者側の証人が考えているほどもしかしたら被害者本人が弁護側が主張するような被告に勘違いさせるような言動をしていなかったとは限らない。本人は殺されてしまっているのだから。
被害者は、ストーカーとなった被告に怯える日々を送り、挙げ句の果てに自宅で眠っているところを襲われナイフで執拗に刺され、致命傷となる傷を負い脳死状態で意識が戻ることなく一ヶ月後に亡くなった。事件当日、自宅にいた祖母も被告と鉢合わせて惨殺されている。
ショッキングな事件だし、話題性もある。マスコミの報道の仕方にも、いつもそうだが恣意的な、つまり「初の死刑判決!」というセンセーションへの期待が感じられるし、公判の様子がこんなにも詳細に公表されてしまう事へに対して不謹慎さというか劇場型の軽薄さを感じたりもする。そもそも、裁判員裁判のように、素人が裁判に加わる事への危うさというか、たとえば公判でマスコミが報道するゴシップの類で裁判員の判断が引きずられたりしないのかとか、そういう不安もあるのだが、こういうのはやはり訓練なのかな。
新しくできた制度だから、やはり初めてが多い。今回も、初めて死刑判決が出るかもしれない。死刑制度の是非は別として、そういう判決は現行の法律では有り得て、そういう判断を下せる、あるいは下さざるを得ない、または裁判員本人はそれを望んでいなくても結果的に死刑判決が出たら自分もそれに関わったことになるというプレッシャーもあるかもしれない。
こうやって、公判の詳細が知らされて、自分が裁判員だったらどう考えるだろうとか、裁判がどんな風に行われているのかを知ったり、弁護側・検察側、被告・被害者とそれぞれの見解や証言を自分なりにつなぎ合わせていったり、被害者や遺族や周囲の人がどんな思いをしているのか、あるいは被告の親族はどんな思いをするのか、裁くとは償うとはどういうことなのかとか、他の人と世間話レベルでも議論したり、またはマスコミのゴシップに踊らされてみたり、そんな中でも事実とは真実とは何だろうと考えたり、あるいは考えなかったりと多くの要素の中で、多くの人々が直接的間接的に関わることが、この制度を成熟させていくのかもしれない。
もちろん、この制度に絶対反対する立場の人たちもいるのだろう。素人が感情で人を裁くと、それはただのリンチになってしまう。けれど、そういう意見も制度の陰には存在していると言うことを常に認識しつつ、多くの目で監視され、自らを律しながら、おそらく時には失敗しながら反省を繰り返し、成熟していくものなのだろうと思う。というか、そうすべきだと思う。そしてその先に、もしかしたら死刑制度の廃止とか法律の改正とか、そういうものを議論する土壌の醸成があるのかもしれない。触らないから変わらないではなく、議論を尽くした結論の上で変える・変えないという結論を出すことができるかもしれない。


私は正直、この裁判員制度が成立するとき、その是非を考えてはいなかった。さほど興味がなかったし、「まぁ、多少民意が反映されても良いんじゃないの?」くらいの認識だった。よくよく考えると、人の良識に拠るところの多い危うい制度だなとは思うが、けれど公には性善説を採る日本としては妥当だと思うし、もちろん数々の抑止の仕組みもあるだろう。なにより、人が人を裁いたり裁かれたりすること、そういう場面で他人事じゃなくフェアであろうとする訓練をすることは、意外と自分を含め今の日本人には足りていないんじゃないかと思ったりする。


ともあれ、制度としては成立してしまったのだから、あとはもう正しく運用していくよう努力するしかない。あるいは、やはり廃止へ働きかけるか。ただ、事象が成立するにはそれを肯定する条件があるのだから、やはりいったんはその事象を受け入れて体験してみて、その上で是非を論じてみても良いんじゃないだろうかと、それはいろんな場面で思う。


しかし、未来のある若い人が、あるいは長年一生懸命生きてきたお年寄りが、無惨な死に方をするのは痛ましい。いや、どんな人がどんな死に方をしても、やはりみんなに看取られて幸せのうちに大往生でもない限り死とは納得しがたいものだろうが、奪われた命というのはやはりことさら痛ましい。
せめて、そのことに多くの人が胸を痛め、それが犯罪の抑止になると良いのだが。

比翼の調べ

KyrieEleison2010-10-19

出勤ラッシュの梅田地下街を、先生に引率された幼稚園児の列がピヨピヨと横切ろうとしていた。
ほほえましいやら危なっかしいやら。一団の横を過ぎていたら、子供たちが声をあげる。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「これから天王寺動物園に行くの」
「楽しみー」
「バイバーイ」
途端に雑踏の地下道が賑やかになる。通りかかったラフな格好の男性が、声をかけたようだった。
その男性は手を振って子供たちを見送り、跳びはねるようにして、何やら歌うように叫びながら去って行った。子供たちの親なら、少し警戒してしまう相手だ。私も、話し掛けられたらきっと面倒だなと思うだろう。
けれど、子供たちのあの明るい声は、そういう大人の警戒心の向こう側にあって、ただ嬉しそうで、それが結構堪えた。


つまんないものばかりいっぱい抱えて、そんなものを振りかざして、賢くなったつもりか。
そんなふうに、横っ面を叩かれたように思われた。


あーあ、なんか疲れたなー。
ちょっと、世界を整理して構築しなおそう。惰性で保有しているものが多過ぎる。

月の盛りに

オベリスク



帰りの電車で読もうと購入した雑誌に、宮城まり子氏の主催するねむの木学園を紹介する記事があった。冒頭、子供たちが描いた絵の一つに、目を奪われた。
画面いっぱいをびっしりと埋め尽くす、色とりどりの花。そして、下の方に小さく描かれた、「まりこさんとわたし」。その、緻密に描かれた花々の強烈な密度と、にもかかわらず時が止まったような静寂と幸福の情景に、思わず涙が出た。
三年半もかけて仕上げた大作だという、圧倒的な世界と小さな自分。この一面の花畑とそこで過ごした静かな時間は、完成までの長い間も色あせることなくこの少女の心に強く刻まれるものだったのだろう。それを与えられること、受け取れることの、幸運と呼ぶにはあまりに深い絆のようなものを想った。
こんなふうに、鮮烈に日常を生きているのだ、彼らは。



月が日に日に丸くなって、夜空を皓々と照らす。それもそのはず、明日は仲秋の名月だ。おかげで星の光が翳んでしまい、せっかく買った星座早見盤が使えない。今週末、吉野の山奥に登山を兼ねて泊まりに行くので、満天の星空でも眺めようかと購入したというのに、星見の予行演習ができずにいる。
とはいうものの、その他の準備は着々と進めており、それはすなわち山岳地図の読み方だったりする。社会科の授業で習った里や街の地図と比べ、等高線が詰まった山の地図は見づらい。ルーペ付きのコンパスを使って地形をシミュレートするのだが、この山結構ハードだなぁ。あと、地形の状態を表すいくつかの言葉「キレット」や「コル」なんてのも覚えた。漠然と見ていた平面の地図が、急に立体的に見えるようになる。こういうふうに、いくつかの新たな知識によって一気にひとつの世界が具体化する瞬間が楽しい。好奇心で、壁にいろんな穴をこじ開けていくようだ。


いつか、行ってみたい山がある。
南アルプス鳳凰三山。その中の、地蔵岳山頂のオベリスクと呼ばれる巨大岩。地蔵の頭とも鳳凰の嘴とも呼ばれる、まるで空から降ってきたようなその不思議な姿を、この目で見てみたい。
沢登りがあるわけでもクライミングが必要なわけでもなく、冬山でもない限り技術的に難しい場所ではないのだろうが、標高差1,500m程を5時間程度で登ることになるらしい。しかも、富士山のように一本道なワケではなく、登山道を自分で辿っていかなければならない。だから、今からあちこち登って知識と体力をつけねば。
幸い、関西でも高い部類に入る1,000m級の山に囲まれ、思い立ったときにすぐ登れるという土地に暮らしている。有休がなかなか取れない中、旅行に行けないストレスを山登りで上手く発散できるのがありがたい。
あの岩はきっと、多くの偶然が重なってから気の遠くなるような時間あの場に在るのだろう。それに引き替え、我が身の儚さよ。せめて生きているうちに、いろんなものを見ておきたい。



急に冷え込んだり、思い出したような残暑が戻ったり、気候が不安定だと体調も崩れがちで、案の定例年通り胃腸の具合を悪くしたり、グダグダと微熱に悩んだりしている。九月は忙しいので、本来ならそれどころではないのだけれど。こういうときは、すっぱりと一日とか半日断食してリセットするのが手っ取り早い。お腹に負担の少ない、甘くない野菜ジュースだけ飲んで、後は寝てしまう。


今週は、木曜日にもまた休日。秋分の日だ。日がずいぶん短くなった。
明日は大人しくおかゆでも食べて、体調を戻して備えましょう。



山岳地図の読み方・使い方 (趣味の教科書)

山岳地図の読み方・使い方 (趣味の教科書)

意外と地道に勉強するんです私。調べ魔なんで。