Pacem In Terris

 桜が咲き始めたと思ったら、雨が降ってきた。
 まだ散る心配をする必要は無いが、花を見に出られないのが残念だ。




 未明、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去した。

 享年84歳。初めて共産圏から選出された、スラブ系の教皇
 国際社会における政治的影響力も大きく、歴代法王の中でこれほど賛否の分かれた法王もいないのではないだろうか。



 複雑化する世界を、まざまざと見てきた人だった。

 宗教的価値の多様化してゆく過程の只中に身を置き、その中で常に、「愛することと敬うこと」「尊厳とは何か」を問い続けた人だった。
 他宗教間との対話と相互理解に努め、「受容」と「共存」訴え続けた人だった。

 真の解放を、実現しようとした人だった。



 現代における宗教的思潮として、「キリスト教による一元的世界観のもたらした弊害への批判」というものがある。欧米でのZen(禅)ブームなどもそのひとつだ。日本でも、河合隼雄などがそんな話をよくする。
 世界の大部分を占めていたひとつの価値に、違う解釈が提示されるようになってきたのだ。


 またひとは、宗教から解放されつつある。
 キリスト教でも仏教でも、同じだ。アイデンティティと宗教は、切り離されるようになってきた。
 ただ、危惧しなければいけないのは、それが科学や哲学の進歩によって宗教に代わる価値を見出したことによるのではなく、宗教の占めていた部分(つまり道徳や倫理)を喪失することによる解放である、ということだ。
 それは、単なる欠如でしかない。

 世俗に生きる者は、常に「聖なるもの」を敬い尊びながら在るべきだ、と思う。
 「相応しくありたい」と願うものを、常に持ち続けるべきだ。
 それが何であれ。



 価値は多様化した。ひとは、多くの選択肢を獲得した。
 けれど、選択の自由には常に他者への理解と寛容、そして受容に努める義務が伴う。

 自分が異なるものを選択し、それを行使する自由を保有するのと同様に、他者も自分とは異なるものを選択し行使する自由を持っている。これからは、異なるもの同士が互いを尊重し、理解し、受容していかなければいけない時代なのだ。
 それにはきっと、古いものに縛られ続けるのと同じくらいの忍耐と努力が必要だ。

 尊厳に関わる問題において、ひとは怠惰になってはいけないのだ。


 正しい宗教・優れた宗教などは存在しない。
 ただ、正しく人を導くものが人によっていくつかあり、それぞれが自分に合ったものを選択し、それに相応しくあろうと努力する。それだけだ。
 そこに、批判や排他や暴力は必要ない。


 いつか、たとえば私にとってのキリスト教が、来世的な希望によって現在の安息を得るのではなく、たった今このとき叶えられる安らぎに感謝するものになる時が来るのかもしれない。
 地上に、神の王国と呼ばれる楽園が実現されるときが来るのかもしれない。
 それはまた、多様な宗教や民族や社会の中で、様々に名前を変えて実現されることが可能なはずだ。

 人類には、その力がある。
 その、希望がある。



 死せる教皇の生涯から、そんなことを思う。
 これが、私にとっての彼の遺産だ。