神に非ずと

 二週間ほどの間、寝るためだけに家に帰り気がつけばまた会社で仕事をしている、という学会前の大学院生のような生活が続いた。忙しすぎる。

 仕事もようやく落ち着き、来週からは何とか陽のあるうちに帰れそうだ。とはいっても、夏至の近い時季。日没が遅いだけなのだが。




 夕方、恋人が帰ってから溜まった新聞を整理したり読んだりしていた。

 日経新聞の日曜版で、写真家の入江泰吉を三週にわたって取り上げていた。
 歴史・文学・美術・芸能に造詣深く、目の前の景色を歴史の1コマから切り取るように撮る。「滅びゆくものの美を撮る」と常に語ったという氏の、「道」と名の付くものにに携わる人種に見られるようなストイックさ。私が大和(奈良ではなく)を見るとき、氏の写真の空気をいつも探している。

 滅びゆくものの持つ美とはなんだろうと、考える。

 おのが欲望ゆえに滅びたものもある。弱さゆえに滅びたものもある。あるいは、何かを守るために滅びたものもあるだろう。負も正も善も悪も、そこに在ったはずだ。
 そして今、数百数千の年月を隔てて見るとき、それらの人間の熱や生々しさは風化し、ただ望みの痕跡だけが、残響のようにして在るのみだ。

 欲も恨みも嘆きも諦めも、ただ幽かな祈りとしてこの地に留まるのみだ。
 それが目の前の風景に、あの静かな優美を与えるのだろうか。


 大和という土地の千五百年を想う。
 都は滅び、土の下の遺構が在りし日の栄華を伝えるのみだ。今はただ静かに、山里に抱かれるようにして眠っている。
 その現在と隔たった時間の最も厚く深い一瞬に、触れる手を持っている人。
 氏の写真に、いつもそんなことを考える。だから、人の心の奥に永くしまわれるものを生み出すことができるのだろう、と。

 私の中の大和の原風景は、間違いなくそれらなのだ。