そして僕たちは

 早く帰ろうと思って特急に乗ったら、人身事故で一時間半も車内で缶詰状態。指定席なので窮屈な思いをせずに済んだが、腹が減って気を失いそうだった。こんなことなら、食べてから帰れば良かった。

 事故は線路内に侵入した何者かとの接触によるものだったらしい。救護活動が無事終了したとのアナウンスがあったことから、飛び込み自殺とかの後味の悪さはなかった。が。
 線路の近くで遊ぶんじゃねぇ。
 そして、電車に飛び込むな。メーワクだ。

 結局、日付が変わる前にようやく家に辿り着き、キッチンに転がっていたナスとトマトでアラビアータ。塩コショウとドライバジルで、ブラボーな出来。オレ天才。




 ロンドンの同時爆破テロで、英国系のうちの会社は一瞬騒然となった。うちのオフィスからは、若手の男の子が一人、シティに赴任している。
 やがてグループ会社関係者の無事が確認されると、みなほっと息を緩めた。それにしても、痛ましい事件である。


 こういう、特定の宗教が絡むと見える事件があると、宗教を学んだものとして周囲から意見を求められたりする。しかしながら、仏教学修士であるキリスト教徒としては、この一連のテロに関しては「イスラム教はよく知らねぇ」としか言いようがない。
 しかし、知らないなりに考える。


 「砂漠の宗教」という言い方がある。
 中東で生まれたユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教は、確かにその苛烈な環境から、無を有に変える唯一神へ強く強く拠る。一切の信仰心が、ひとつの対象に向かうのだ。アジアの汎神論的世界観からは、おそらく想像するのが困難だろう。
 かといって、敵への絶対的な攻撃のみが苛烈な環境で身を守る方法であるわけではない。互助こそが、最大の守りである。そのことを、実は彼らが一番良く知っている。

 「アッサラーム」とか「シャローム」とかいう言葉を、挨拶として聞くことがある。それぞれアラビア語とヘブル語で、「あなたに平和がありますように」という意味だ。
 人の世界を支えるどこの神も、究極説くところはLove&Peaceだ。

 宗教とはそもそも人のためにある。
 それは、人の願いが神を、宗教を作り出すからだと思っている。
 人を害するものは、どこまでも魔だ。

 何千年もの間、気の遠くなるような数の人々に支持され、拠り所となってきたものが、こんなふうに簡単に悪となるはずはない。解釈に誤りがあるのだ。



 こんなに長い間こんなにたくさんの人が平和を願っているのに、なんでなかなか実現されないんだろうな。

 こういうところで、総体に対する個体を意識するのだ。
 本当は、逆のほうが望ましいのに。