君は僕とは違ってた

 会社帰りに難波まで歩いて、ついでに髪を切ってきた。
 伸ばそうか短くしようか迷っていたが、ようやく肩まで届いてしまったので、長さは変えずに梳いて軽くしてもらった。
 襟元の暑苦しさは解消されたが、なんだか子供っぽくなってしまった。

 周期的に肉付きのよくなる時期なので、少し丸くなった顔が余計に童顔に見える。体調の悪さから来る疲弊がどうにも油断を誘い、全体的に表情が露骨というか豊かになってしまっているせいもあるかもしれない。
 仕草も表情も四歳の時分からほとんど変わらないらしいので、気を抜くと子供じみたことをしてしまう。集中すると下唇を噛むクセとか、悩むと眉を寄せてへの字口になるクセとか、そういう類の。
 三十女がすることじゃないな。



 金曜日は、会社の人たちとの飲み会に参加した。そのときの写真を同僚に見せたら、「なに?オマエも行ったんか!」と驚かれたくらい珍しいことだ。考えてみれば、部署の歓送迎会以外では丸一年こういう席に顔を出していない。

 こんな機会でもなければ宴席を共にすることもないだろう新卒の女の子とか、エンジニア系営業のオニーサンとかもいたので、それなりに珍しい思いもしたのだが、きっともう行かねー。

 男の人が、やはり苦手だ。特に、酒が入る席では。恋人以外の男性との間に色気が入ることが、本当に嫌いなのだ。
 こういうところも、やはりどちらかというと子供じみていると思うのだが、男性から異性として見られることに強い嫌悪感を持っている。これは、貞操観念とかそういう高等な倫理観ではない。大人の男女に対して漠然と子供が抱く類のものだ。
 「これも社内営業よ」なんて、笑って受け入れられないのだ。
 頑固で偏屈な子供なのだ。
 こうやって私は子供と大人を都合よく使い分け、いくつかのことを回避してしまうのだ。




 人は、多くの物事における可代替性によってもたらされる不安と、常に向き合わなければならない。そういう、心許ない存在でしかない。
 会社組織など、良い例だろう。

 まず自らが代替可能であることに気づき、その次に替えがたいものになろうと努力し、やがて、結局は皆そういった努力の上で居場所を確保しているのだということに気づき、自分だけが特別なわけではないと理解するのだ。


 「希有なもの」が、その実如何にありふれているか。
 進んだ先にあるのは、そのことに気づくための何事か---たとえば智慧などと呼ばれるものであるのかもしれない。少し気の利いたものであるならば、その事実を受け入れる、あるいは耐える術を教えてくれる。


 少なくとも私の世界は、積み上げられた価値の根底に、虚無が広がっている。そのことを、なぜかいつもこの時期になると再確認する。
 こんなふうに、ひどく初期仏教的な思考をする。