往きて還るもの
夏期休暇中の一週間に溜まった仕事を解消するのにどれほどかかるかと思っていたら、拍子抜けするほどあっさり片付いてしまった。相変わらず仕事はえーなオレ。
結局、休みが明けて二日目にはすっかり通常通りだ。
とは言うものの、避暑地の快適さに慣れかけた身体には、大阪の蒸し暑さはちょっと酷だ。おかげで、少々体調を崩している。
休暇の後半は、両親と共に信州蓼科に滞在していた。
いくつかの湖が魅力ではあるものの、軽井沢や清里と違って目立った観光スポットがあるわけでもなく、おかげで然程人も多くなく全体的に年齢層の高い世代が多いので、静かに過ごせるところが両親の気に入りだ。
今回は日程に余裕があったので、久しぶりにゆっくり休んだ。
父の案内で木曽路まで足を伸ばしてみたり、古戦場を訪れたり、梢の向こうの月の白さに目を奪われたり、牧場で渡る風を眺めたり、湖畔で珍しい昆虫や植物を探したり、朝の森を散歩したり。
小学生だったら、絵日記に書きたいことがいっぱいだ。
でも、こういう時間の貴重さは、子供の頃ってわからないんだよな。
得がたかったのは、ずっと両親と行動を共にしていたということ。
こんなに何日も一日中一緒に居るなんてこと、今まで無かったんじゃないだろうか。
実家に居れば、それぞれやることがあるので別々の部屋なり場所なりに居るが、今回の旅行は本当にずっと共に居た。
同じ車で移動し、同じ場所に行き、同じテーブルで食事をし、同じ部屋に帰って眠った。それでも、特に退屈するわけでもなく、話すことが無ければ黙し、思いついたことを好き勝手に話し、時に手を貸しあい、相手の習性に呆れてみたり、またそれを笑ってみたり、そうやって快適に過ごすことが出来るのだ。
ああ、これが家族か。
ようやくそのことを知った気がする。
私は幼少時の数年を他家で育ったためか、両親と兄弟で構成される家族というものにずっと違和感と疑念を持ったまま、思春期を過ごし大人になった。
それでも、なんというか、辿り着けたのだ。大きなひとつの肯定のための道筋に。
このことはきっと、これからの私の選択に、様々な形で小さく影響を与えるようになる。
とても幸福な形の夏休みだった。
子供の頃のあの光の強さとはまた違う、静かに刻まれるものたちを得た。