Dot


 久しぶりに明るいうちにオフィスを出た。

 風も暖かく、気分を良くして御堂筋沿いを一駅分歩く。銀杏並木の新芽が、極上の翡翠のように枝を飾っている。そういえば、銀杏の実も翡翠色だ。

 帰りの遅い日がもう三ヶ月近く続いている。部署に人は増えたが、人手は増えていないという微妙な現状だ。そして、仕事は次々と増えていく。
 幸いなことに、それでも楽しくやっている。忙しいけれどやりがいのある仕事だし、同僚との関係も良好だ。ようやく、良い循環が構築できた気がする。

 残業をしない主義だった私がたいした変わりようだが、それでもやっていけていることが一番大きな変化だ。それでも、月に二日くらいは早く帰る日を捻出している。そうでもしないと、人間らしい生活を送れなくなる。たまには通りかかるデパ地下が開いている時間に帰らねば、食料も確保できない。

 先日ようやく、会社帰りに髪を切った。美容院は三ヶ月ぶりか。染めてもいないしクセもないので意外と気づかれないものだが、それでも煩わしくなる。せっかく伸びたのだから長さは変えず、梳いて軽くしてみたらイイカンジになった。
 化粧も少し変えてみた。なんだか、こういうことが楽しい。




 いくつかの選択肢が、目の前に在る。
 プランニングかシステムか。管理職か、本社勤務か。仕事か結婚か。

 これまで、苦になるほど努力をした覚えはないが、気づかずに努力してしまうらしい性分と、もともとの器用さと要領の良さで、良くも悪くも「あとちょっと」という選択肢をいくつも作ってしまった。「狭く深く」なら選択の余地はないが、「広くちょっとだけ深く」なので、下手にどれも選べない。こういうのを、器用貧乏というのだ。

 そして困ったことに、「どれか」じゃなくて「どれも」やりたい。そもそも、飽きっぽい人間だ。「どれか」なんて、怖くて絞れない。


 子供の頃、やりたいことなんて何も無かった。
 自分が何者であるかもわからず、またおそらく何者ですらなく、そのことに不安と絶望を抱き、生は遠く常に虚無と寄り添っていた。
 こんなふうに、「もう一人自分がいればいいのに」なんて、一人で二人分の生を望むくらいに貪欲になるなんて。


 来し方に立つ自分を眺めるに、ただ捨てずにいたことが唯一の正解だったと想う。
 不安も絶望も苦悩も悲しみも、全て在れかし。それらも正しく私の道を築き、基いとなって現在に至る。

 先のことはわからない。
 だが、断たない限り道は続き、いずこへか辿り着くのだ。