極東の木陰


 夏休みのためだけに生きている今日この頃です。


 このひと月ほどは、毎週金曜日は誰かと飲みに行くというちょー社交的な日々を送っている。おかげで、対人キャパがオーバー気味だ。考えてみれば、夏になると人嫌いになりがちだが、こういうのが原因なんじゃないのだろうか。どうも夏は浮かれてしまう。
 なのに今週も約束を入れてしまった。オレのバカ。

 週末くらいは恋人とのんびり、と思うのだが、残念ながら博士論文執筆中の彼はなかなか時間的精神的余裕がなく、のんびり、とはいかないのが現状。おかげで私は、週末ともなると一人でごろごろ部屋の中を転がったりして過ごしている。
 しかし、彼自身もそんな荒んだ研究生活にも息抜きは必要と、なんとか一日は私と遊ぶ時間として確保してくれる。おかげで、大変仲良しだ。


 ナゼか最近、周囲で破局を迎えるカップルが多いのだが、私たちはつきあいはじめて八年目を迎えようと言うのに相変わらずだ。冷めるでもなく続いている。
 秘訣はおそらく、彼の根気強さと私の無欲さゆえだろう。私は彼に対して特に何も求めておらず、彼は私を「変わった生き物」と捉えている。
 したがって、「価値観の違い」とかは余り問題にならない。むしろ、違って当たり前、違うから面白い、くらいな感じだ。
 もちろん、根底には互いへの敬意と言うか思いやりがあってのことだ。それぞれまったく別の価値観に基づいて、相手を尊敬している。

 「君の感性は出世間だから。」
 他者との間に共感を得られないことを訴えたら、事も無げにそういわれた。
 私のことを異形と畏怖するわけでもなく、異物と突き放すでもない、彼のそういうバランス感覚に、私はずいぶん救われてきた。


 出会ってからの自身の成長を実感しており、それは互いの存在が密接に関わっていると理解している。

 私を構いすぎて噛まれても(動物か)、のんきに笑っている彼。
 突然ひらめいた思索に没頭する彼の横で、雲の形を眺めている私。

 まったく別々のものを観ながら、共に進んでゆく。そういう関係を、築き上げた。

 もう、この先二人のカタチがどのように変わっても、たとえば別々の人生を歩んだとしても、良いと思う。これまでの道程で、すでに満たされている。充分与えられた。
 その時々でずっとそう思ってきたが、やはり改めてそんなふうに思う。


 相手にとっての幸せは何だろう、とずっと考えている。もしもそのために自分が障りとなるならば、去ることも出来るだろう。

 そういう自由さをもって、私たちは相手のことを想うのだ。