箱舟

 一日、雨の音を聞いていた。
 近畿地方南部は、一時大雨警報が発令されるほどの土砂降り。屋根を叩く雨音がまるでダイナモの唸りのようで、少し恐れて毛布に包まっていた。


 真夏日と肌寒い日とが交互にやってきて、おかげでアレルギー性の気管支炎に。先週から、どうも身体を壊し気味だ。本当に、環境の変化に弱い。
 扁桃腺が腫れ熱も出ているので、家で大人しくしていることにした。


 薬の副作用もあって、頭がぼんやりしたままゆめとうつつを行ったり来たり。それでなくても、雨の日はひどく眠い。雨音のせいだろうか。

 目を覚ましては水分を補給し、枕元の本をとって捲って、またまどろむ。こうやっていると、一日はひどく短く思える。特に何も為すことが無かったからかもしれない。時間の量は、為したものの成果によって測られるのかもしれない。

 あまりに非生産的なので、とりあえず料理をしてみる。
 相変わらず、ちょっとした腕前だ(イヤ、材料がいいだけだろう)。



 本当は、ドメスティックな人間なのかもしれないと思う。
 外に出なくても、まったく不足を感じない人間だ。むしろ、外に出れば出るほど消耗する。
 仕事で得る評価や遣り甲斐に、さして価値を見出しているわけでもない。「経済的自立」という大義のための、暇つぶしのようなものだ。幸か不幸か、自分がそれに甘んじることさえ出来れば、経済的困難を回避できる環境に生まれている。


 私は、どうなってしまうのだろうという漠然とした危惧もある。
 徐々に、性別も失われている感じだ。私を形作る多くの境界が摩滅していっている。もともとへテロセクシャルなわけではないのだと思うのだが、「両方」なのではなく、「どちらでもない」者になっている。

 恋人に対する想いも、いつの間にか恋ではなく人類愛の一端としてのそれになっているのではないだろうか。そんな私に対するもどかしさを、彼から時折感じ取る。そして、それすらも受け入れたような寛容と諦めも。
 私たちは魂でお互いを強く求め深く繋がっているけれど、この関係は男と女のそれではないのかもしれない。きっといつか、この形を変えられるものだ。

 ああけれど、二人で目指す最上とは、それだったのかもしれない。
 臍帯で繋がったまま、別々の世界に生きることだったのかもしれない。


 多くの既成に疑問を差し挟まずにはいられない性分が、同時にいくつかの可能性を拓き、また、いくつかの道を閉ざしてもいる。
 本当に辿り着くべき場所は、どこなのだろう。
 そんな青臭いことを、いまだに考えている。



 …身体が弱って気が滅入ると、人生に対してネガティブになりがちだな。
 現状への寛容さが乏しくなるのだろう。本来私は、こういう人間だ。