Why should we wish to live longer?
夕風のやわらかさに、早くも九月の気配が混じる。
盛りの時に終わることを意識させられるのは少々やるせない気分になるが、溺れぬようにとの戒めかとでも思えば、ある種の慎みを感じなくもない。
日本の四季は、そんなふうに巡るように思う。
夏の盛りに勤労意欲を保つことは難しい。夏の盛りでなくとも難しい。
この一週間ほどは、だらだらとやることだけをやってとっとと帰り、上手くいけば山々に映る西日の複雑な色彩を楽しみ、帰宅してすぐスポーツクラブに行く日々を繰り返していた。
オフィスから一歩出れば、やたらと意欲的になるのだが。何事にも。
思っていることがすぐに顔と態度と言葉に出てしまう大人気ない私だが、「仕事は楽しいか」とかどちらかというと愚問の類で上司に気遣われていたりする。楽しくないから仕事なんスよリーダー。
「普通の人がメインワークでやる仕事をあなたはルーティンワークにしちゃうから」と、仕事に対する要領の良さと誠意の無さを同時に指摘され、なるほどと思う。
道理でいつまで経っても専門性が身につかないわけだ。結構いろんなことが出来ると思うが、スペシャリストではない。
先日、数年前に寿退社して今は一児の母となった人と、もうすぐ寿退社する人と、三人で食事をする機会があった。
彼女たちは、私よりひとつ年上。年上か年下で大半が占められていた社内では、希少な同世代。
一児の母となった彼女の、結婚を決意した経緯や育児の現状のリアルさに、ちょっと身につまされたりしてみる。ただ恋や愛だけで結婚が成立するわけではないのだ。
仕事も、選択を迫られる時期。マネジメントかスペシャリストか。しかし、スペシャリストというほどの何がしかを持っているわけでもなく、かといってマネジメントなんて真っ平だ。
このまま何者かになれるわけでもないという自己認識と閉塞感から、結婚を選ぶ人の気持ちもわからないではない。そこでは、ひとつの家族を生産・運営できる。
私も結婚という形に抵抗を持たずに済む人間なら、いろいろ上手くいっていたこともあっただろうに、と思う。少なくとも、いくつかのものを破壊せずに済んだはずだ。
しかし、やんぬるかな、私は多くの既成に疑問を差し挟まずにはいられない人間であり、同時に、その問題の解決を成し遂げるほどには成熟していないのだ。
他人から望まれる幸福を無視していられるのなら、私はこの上なく幸せに今を生きていると思っている。
仕事とそれに見合った賃金を得ており、自分の生活を慎ましさとある程度の自由をもって営むことが出来、大きな病気を患うことも無く、誰かと一緒に居なくても孤独とは無縁で過ごし、夜は静かな部屋で月の光を仰ぎながら眠ることが出来る。
それでいいじゃないかと思うのだが。
強いて言えば、通勤時間の短縮だけだ。
ひとつの決意のために生きている。
自分の生を、そう仮定する。
だとすれば、それ以外のことは、そうはいっても実はたいした問題ではない。
そうやって私は、一切を無に帰する呪を誓いにすり替え、祈るふりをしているだけなのかもしれないが。