ここにいる。

母が開く茶会の手伝いでこの週末、実家に帰っていた。


広間と茶室と応接間とキッチンで、それぞれ大茶盛だとか和菓子作り体験だとか立礼だとかコンテンツも盛りだくさんで、60名の集客をして(前年比150%)、あきれるほどヤリ手な母だ。そして、それだけの人数が収容できるものなのだと、改めて田舎家の広さを思い知る。駐車場にも乗用車が10台入る。駐車場以外も使えば20台入る。
ちなみに、母の懐石や茶事教室のお弟子さんはいいところの奥様方がそれなりのお車でお越しになるため、はしばしば高級外車が駐車場に並んでいる我が家は、近隣で「や」の付く稼業の家だと噂されたりしているらしい。
この日も、通り過ぎる車が何事かと覗き込んでいた。別に反社会的な集会をしているわけではありません。


祖父は、ずいぶん耳が遠くなっているようだ。補聴器を購入したらしいのだが、いまひとつ慣れないのだとぼやいていた。視野も狭くなっているのか、母の隣に立つ私に気づかなかったりする。
なんだか、徐々に世界を閉じていっているみたいだ。年齢からしたら当たり前なのだろうが、うちの血族は不老不死と嘯いていたくらい若く元気な人だっただけに、少し戸惑う。

それでも、なんだか朗らかになってきている祖父の冗談に笑いながら耳元に口を寄せて応えていると、それはそれで悪くないのかもしれないとも思う。
人はやはり老いていくもので。それを、こんなふうに地に足をつけたまま、心は軽くなっていけるのなら、それは彼の人生を良いものとして肯定してくれるのではないだろうか。


ありがたいのは、祖父母にしろ両親にしろ、年々身軽に楽しげになっていくことだ。
祖父母の時代は戦争があった。両親はずっと団塊の競争社会の世代だった。こんな平穏な時代に生まれてもなおもがいている私たちは、けれど、いまこの時期を経ればやがて、彼らのように歳を取っていくことができるのだろうか。


そうだといい。