四月の底で

KyrieEleison2009-03-01

たぶん、私にはひとがもっとも醜い形で見えるのだろう。
それは、そのひとそのものの醜さではない。私が作り上げてしまった幻影だ。


善意とか好意とか気遣いとか労りとか、人が差し出してくれるそういうものの、意図ばかりを見ようとしてしまう。目についてしまう。たとえそこに何がしか別のものがあったとしても、優しさは優しさとして受け取っていいものなのに。


人間とは多面性をもつもので、その場に応じた面をつぎつぎと見せていくものだ。だから、どれが真実であるかとか、どれが正しいかとか、そういう単純な決定というか絞り込みをする必要はない。
…ことは分かっている。けれど。


みんな、感情をむき出しにすることなく人を傷つけることなく、理性的に礼儀正しく行儀良く他者と接し、円滑にきちんと人間関係を進めていくというのに。私はその流れに上手く乗れず、猜疑に震え縮こまることしかできない。
あんなにやさしくただしい姿が、私には恐怖しかもたらさない。


人は修羅道という空間に堕ちるのではない。修羅という心の在りように陥り、自分を取り巻く世界をそのように造り替えてしまう。それが地獄と呼ばれるものだ。
時々、そうやって光を避けるように、地底に沈むように、世界が姿を変え私を責めるのだ。