この空の上

恋人が弟のように面倒を見ていた大学の後輩が、数日前から脳死状態に陥った。
折しも臓器移植法案改正が話題になった時期であるが、「もしも身近な人が」という事態をまさに目の当たりにしている。


私自身は元来大変薄情な人間であるし、やはり「恋人の後輩」であって私の直接のではないのだが、それでも月に何度か三人で食事をしたり遊びに行ったりするくらいには身近な子だ。春にちょっとした事故で頭を打って生死を彷徨い、それでも奇跡的に何の後遺症もなく回復して退院、実家で療養しており、ようやく最近顔を見せに来たばかりだったのに。


自発呼吸を司る脳幹が死んで、人工呼吸器なしでは生命を維持できない肉体。心臓が動いている間は血は巡っているから温かいけれど、大脳も小脳も機能していなくて、当然意識もない。機能を停止した脳は血流が止まるため融解が始まり、回復する見込みもない。そして、遠からず心臓も停止する。


私はそれまで、法律がそうである通り脳死はひとの死だと思っていた。意識も意思もない肉体で、生命だけを引き延ばすことに価値なんてないと思っていた。けれど、心臓が動いて体が温かければ、そこに横たわっている人が死んでいるとは到底思えないのだ。99.99%ありえないといわれても、希望を持ってしまう。なにか奇跡のようなことを望んでしまうのだ。
脳が機能していなくて意識が戻らなければ、機械に頼らないと呼吸ができないならば、その身体は生を見出すに値しないのだろうか。
もちろん、これが数ヶ月とか数年とか経って、希望に倦んでしまったり現実問題としての介護の負担によって変わっていくのだろう。ただ、延命措置は家族のエゴだとか、どうせ死んでしまうなら使える臓器を使った方がいいとか、そんなことは当事者でない人間が知ったふうに語れることでは絶対ない。勿論、本人の意志は尊重しなければならない。ただ、ごく近い将来、概ね一週間のうちに訪れる死を受け入れなければいけない家族には、少しでも長くと延命を望む権利があってしかるべきであり、他者がそのことについて口をはさむべきではないのだ。
結局、正論だろうが合理的だろうが一般論は一般論でしかなくて、賢しげに一人の人間の生死を語ることなんてできないのだと、思い知った。


恋人の家の玄関先に、「今度来たときに庭の草刈りを手伝いますよ」といって置いて行った鎌がそのままになっている。家に入るとまずそれが目に入ってしまうのだ。だからといって、何かが決まってしまうような気がして片付けることができない。そんなやりかけの影があちこちにあって、早く帰ってきて全部片付けて欲しいと、呻くように恋人は呟いていた。その悲嘆の生々しさに、私は声もなかった。ましてや、ご両親やご家族の気持ちは如何ばかりかと思う。


本当は、この週末から恋人の家の前にある下宿に戻って、入院で遅れた分を取り戻すべく夏休み中ずっと恋人に勉強を教わるはずだった。今日だって、本当はいまごろ私も一緒に晩ご飯を食べて、夏休みは何をして遊ぼうと話していたはずだったのだ。けれど、考えるのが怖くて私も恋人も上手く彼のことに触れられずにいる。痛すぎて、すぐ話を変えてそのことから離れてしまう。


彼は今、どこにいるのだろう。
ばか。