あるいてく


週末はお葬式だった。
件の後輩は亡くなったのだ。


いざ亡くなってみると、実際に目の前にあるのは現実的な問題ばかりで、身体があるうちに会っておきたかったので有休をとることにしたもんだから締め切りのある仕事を詰め込み、喪服を買いにデパートに駆け込み(高くて泣いた)、数珠やら袱紗やらをクローゼットから発掘し、大阪から北関東までの新幹線やらホテルやらの手配をして、しかも気がつけば結構な出費で、思わず納棺の際に思い出の品々と共に領収書も入れてもらおうかと思ったくらいだ。
人一人死ぬって大変なことだなぁ。その死を受け入れる側に、ものすごいエネルギーを要求するものだな。喪失っていうのは、そういうものなんだろうな。


本人の地元で執り行われたので、地元の関係者や親族友人たちがたくさん弔問に訪れていて、私にとってはいろいろ手がかかって面倒なくせに役に立たない後輩ではあったが、それでもみんなに愛されていたんだなぁなんて思った。
私を含めた大学関係者も関西から結構駆けつけ、しかもうちは仏教系の大学なので自動的に僧侶も多く、さらにナニゲに高僧も数名いたりで、わりと豪華な告別式になったのではないかと思う。高校時代の友人たちが若者らしいストレートさで涙を流す一方で、みな僧侶らしい静かさで一歩引いてひっそりと故人を悼んでいたのが印象的だった。


恋人はずっとご家族を助けて忙しくしていた。
泣くタイミングを逸してしまって、なんだか不完全燃焼だと。こちらに戻ってきてようやくひと段落ついてから、そんなふうに漏らしていた。どちらかというと悲しみよりもまだ憤りの方が強いらしい。
落ち着いて、折々に思い出され、ようやく少しずつ彼の不在を実感して、悲しんだり寂しく思ったりするようになるのだろう。
そうして、残されたみんながそうしているように、受け入れていくのだろう。


ひとつ、不思議なことがあった。
彼が亡くなった日、会社帰りの地下鉄の駅のホームで電車を待っている時、同じく電車を待って並ぶ人々の向こうから、彼が歩いてくる感じがしたのだ。いつものようにニヤニヤして、ちょっとバツの悪いそうな顔をして。そんなふうに考えて、これじゃなんだか死んじゃった人があいさつに来たみたいじゃないかと「なーんてね。」と思いなおした。それが、後から聞くとちょうど亡くなった時刻だったのだ。
人が亡くなると夢枕に立つというが、霊とかオカルティックなことは全く信じていないので私のただの想像だと思っているが、見る側の勘みたいなものがそうさせたりすることがあるのかもしれない。


それにしても、死ぬってどんな感じなんだろうとかあの世のこととかをいざ考えてみると、「先に行って待っていてくれてる」とか「数十年後に会おうな!」とかは七七日つまり四十九日で転生すると考えられている仏教では成立しない想像になるし、だとしたらキリスト教徒の私なんかは死んだら仏教徒たちが次々転生する中であの世に取り残されてるワケ?つーか、輪廻転生のない宗教の人間ばっかりがあの世に溜まってくワケ?とか疑問は尽きないのだが、とりあえず不謹慎を承知で言わせてもらうなら、このクソ忙しく金欠の時期に死にくさった最期まで空気を読まないあのアホにはあの世で海よりも深く反省してもらいたいものだな!
ばーか。